殷王朝からの射程
この学問の起源は、紀元前1300年頃の殷王朝まで遡ります。
甲骨文字に刻まれた干支が、月日を記録する文字として使われていました。殷王族の名には、生まれた日の天干が入れられていたという記録が残ります。
唐代 — 命理学の成立
唐代(618-907年)、李虚中が、生年月日の三柱から命を推察する体系を初めて確立しました。
宋代 — 子平術の革命
宋代(960-1279年)、徐子平が、日干を命式の中心に据えるという革命的な理論を打ち立てました。これが現代に引き継がれる命理学の基礎です。この理論体系は「子平術」と呼ばれます。
明代 — 命理学の黄金期
明代(1368-1644年)は命理学の黄金期です。開国の軍師・劉基(劉伯温、1311-1375)が注釈したと伝わる『滴天髓』が著されました。劉基は朱元璋の天下統一を補佐した明王朝最大の戦略家です。
同時代に『三命通会』(万育吾)、調候を説く『窮通宝鑑』(余春台編)が著されました。
清代 — 体系の完成
清代(1644-1912年)、進士・沈孝瞻が『子平真詮』を著しました。清初の礼部尚書・陳素庵は『滴天髓』について、先に引用した評言を記しています。
日本への展開
日本の算命学は、昭和初期に高尾義政(1917-1996)が中国古典の命理学を独自に体系化したことで、今日知られる形に整えられました。
高尾の算命学は、干支暦と陰陽五行論を基盤に、位相法・天中殺・十大主星など、日本独自の解釈体系を作り上げました。
その後、多くの流派が派生し、日本独自の算命学文化が発展してきました。
芭禅算命学の位置
王族・宰相・軍師たちが、自らの命式と国家の方針をこの体系を使って読んでいました。単なる占いではなかった。為政の哲学でした。
芭禅算命学は、この三千年の系譜を受け継ぎつつ、近代に生じた「占い化」への傾斜に対して、原典回帰を提唱する現代の流派です。
古典(滴天髓・子平真詮・三命通会・窮通宝鑑)の深さを正面から汲み、高尾系算命学の解釈体系(位相法・天中殺など)を継承し、「吉凶判断」や「行動指針」は慎み、自己理解のための知の体系として整えます。
流派の壁を超え、八字と算命学の両方の系譜から学べる、参照可能な現代の流派——それが芭禅算命学です。